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寺子屋『結』

「心の塾」開設への想い

 数年前、短い期間ではあったが縁あって民生児童委員という役を経験させて頂き、私は日本に埋もれる二つの宝を見つけた。一つは高齢者、もう一つは子供達である。私が担当したのは約300人近い73歳以上の「高齢者」と言われる方々であったが、そのほとんどが尊敬すべき素晴らしい方々だった。

 元教師、元職人、元役人、元軍人、みな大抵は「元」何々という肩書きであり、現役で活躍されている方はわずか。人柄も様々ではあるが、世の為になる仕事をされてきたことに違いはない。そんな方々の半数近くが孤独な生活をしている事実を知った。

 

 仕事一筋で独身を貫いた方、パートナーに先立たれた方、子供に恵まれなかった方など様々だ。家族が居ても独居生活を強いられている方や好きで一人暮らしをされている方もいたが、家族の支えの中で問題なく幸せに暮らしている方は、残念ながらごく一部だった。

 

 退職後の私生活には現役時代の勲章とも言える足跡が感じられる。専門書であったり、賞状であったり、かつての仕事に関わる品々だ。以前の仕事を趣味として継続されている方もいた。芸術に関わってきた方のお宅に無造作に置かれた作品は、辺りの美術館に展示されても遜色ないほどのものだ。建築家、書道家、華道家、武闘家、こんなに小さな町内にこんなにも素晴らしい方々が暮らしていたのかと驚いた。当時、高額な塾代を支払い、遠くの様々な習い事へ子供を通わせていた私だが、身近にこれだけのエキスパートが時間を持て余しているのにおかしな話だと思った。同時に町会に携らせていただいていたこともあり、地元住民がいかに地元との関わりを持たずに暮らしているか実態は把握していた。都心に近い主要駅も徒歩圏内にあり、病院、役所、学校、商店と日常の暮らしには全く不便のない商店街を中心とした町だったが、地元民同士の関わりをあまり感じられない町であった。子供も多く、子供向けの習い事教室などは多くある半面、高齢者や年配者を対象としたものはそう多くなく、区立の地域センターなどが発信元となり、個々に開かれているサークルを回覧板などで案内する程度であった。地元以外の町で働き、退職を迎えた年配者の大半は近所付き合いがない。その為、自然と引きこもり傾向になる。それはまさに悪循環の始まりで、足腰は弱り通院生活が始まる。孤独感や不安から精神疾患を患い、元気を失っていくのだ。引きこもりは、ヤル気を失わせ思考能力も低下させ、性格も変わってしまうこともある非常に恐ろしいものだ。

 

 人との関わり、社会からの孤立は認知症の発症要因となり、最悪は孤独死にも繋がる。現在問題視されている共働き家庭の子供の預け先がない、放課後の学童に入れないという点においては、それぞれの区や市が一部の対象者に対し、シッター制度のような形でサポートをしているが、決して安価ではなく、内容も満足のいくものではない。その結果、預け先の無い一部の小中学生達は夜まで一人なのである。大人の目が行き届かず、それが犯罪や非行に繋がるケースは非常に多い。

 民生児童委員の活動に関しては、関わりを拒む方以外、私は極力様子を見に訪問した。些細な頼み事にも出来る限り対応した。みな話し相手が欲しいのである。高齢という言葉を嫌う方も多かったが、独居生活者の場合些細な怪我や思わぬ体調の変化が最悪のケースにつながることも少なくない。日常をどのようなサイクルで過ごしているのかをそれとなく聞き、玄関の灯りがついているか、郵便受けや洗濯物の状況などを確認しながら、訪問せずにただ見回る場合もある。不審者の出没といった些細な事件でも独居老人にとっては恐ろしいことであり、警察と連携し犬の散歩をしながらパトロールもした。日常的に昼夜を問わず掛かってくる電話も様々だった。背中の湿布に手が届かず困っている、電球を交換して欲しい、保険証がみつからない、病院への付き添いをして欲しい、役所から届いた書類が細かく理解ができない等々、日常生活のSOSだ。ボランティアがそこまで要望に応える必要はないといった意見も多かったが、私はそう捉える人には民生委員は不向きなのではないかと感じた。人は加齢と共に弱っていくのは自然のことだ。耳が遠くなったり白内障を患ったり、筋肉が衰えたり、瞬発力が落ちたり、それはいたって普通のことでありそれを老化と言うのだ。昨日まで出来たことがある日突然出来なくなることは誰にでも起こり得ることで、誰かの支えを必要とすることは甘えとは言わないのではないかと思う。人を頼らずに日常を送ろうと努力する方もいれば、寂しさや甘えから電話をかけてくる方もいたが私にとっては全く苦痛でもなく、嫌と感じたことは一度もなかった。「死」を意識するような年齢になると不安と寂しさが襲ってくることも自然なことなのかもしれないと感じた。仕事をリタイヤし社会から隔絶された生活では尚更だ。そしてそれは未来の自分の姿かもしれない。私はいつもそう思い交流に有難さを感じながら活動を続けていた。

 

 高齢者が話す話は大抵が遠い昔の話だった。一番多いのは戦争の話である。私の祖父は93歳で他界したが、戦争の記憶だけは最後までしっかりと残っていた。一番嬉しかったことよりも一番辛かった出来事が脳裏に焼き付くものなのだろうか、と当時の私は少し複雑な気持ちを覚えた。認知症を発症したその方は、突然、自分が戦地に行ってしまう。「後方、敵機確認!○○兵!頭を下げろ!」とベッドから床に転がり、這いつくばる。そんな時私はいつも一緒に頭を下げ、床に這いつくばり、○○兵役をやった。匍匐前進も一緒にやった。もちろん嫌だと思ったことは一度もない。なぜならその方に敬意をはらっていたからだ。その方だけではない、過去に亡くなった方々全てに感謝と尊敬の気持ちを忘れずに私は日々を生きている。その方々の努力と犠牲の上に生かされている自分がいるからだ。

 

 有難いことに私は、祖父母が身近にいる幼少生活を送り、日本の昔話を聞くことができた。日本文化に携わる家に育ち、周りには多くの知識や経験を持つ大人たちがいる環境に恵まれた。神職の親戚や僧侶の先祖を持ち、神棚と仏壇のある家で育ち、先祖を敬うことの意味を知り、人に支えられ守られることで「感謝と思い遣る心の大切さ」を学ぶことができた。 祖父に対しては介護もさせてもらうことができた。人間が歳を取るというのはどんなことなのか、身をもって祖父は私に教えてくれのだと感謝している。共働きの中、最後まで親の介護をした両親の姿も同じだ。私は常に周囲から大切な多くを学ばせてもらう人生であり、だからこそ民生児童委員というお役目が肌に合っていたように思う。

 

 話は戻るが、こんなにも素晴らしい経験と知識や技術を持った方々が「退職」という言葉で社会から外され時間を持て余している現状を知り、宝の持ち腐れではないかと残念に思った。当時の私は子育ての真っただ中であった為、子供達の置かれている環境をリアルタイムで把握していた。核家族、母子家庭、父子家庭、共働きの家庭。本人の意思とは別に頭の良い学校へ進学させる為に親のエゴで塾通いをさせられる子供、お金が無く習い事ができない子供、お金だけ渡されて放置されている子供、コンビニのおにぎりを遠足に持ってくる子供、挨拶のできない子供、ボール遊び禁止の公園だらけで外で遊ぶ場がない子供達。その時に学ぶべき事を学べず、大人の作り上げた身勝手な環境に巻き込まれるのが子供達だ。そんな環境で育った子供の社会性は言うまでもない。しかし一方では大切なことを教え与えることのできる時間と能力を持て余す素晴らしい年配者が沢山いるのである。多くの可能性を持った子供達と熟練した技術と知恵を持った高齢者、この二つが合体したらまさにwin-winではないかと思った。

今の日本の現状を見て、お国の為と死んでいった兵士たちは喜ぶだろうか。約二千七百年に及ぶ日本の歴史の中で、この国の豊かで平和な未来を思い勤しみ亡くなった多くの御霊は浮かばれるのだろうか。同じく、命懸けで改革を成し遂げてきた偉人達はどう思うのだろうか。民生児童委員の経験・体験を通じてそんなことを考えるようになった。

 

 30代までの私は社会福祉に携わることなど考えたことはなかったが、ごく自然と児童虐待を受けている子供たちと関わることが多くなり、怒りと切なさの混ざった正義感に襲われるようになった。しかし、何の資格も持たない私にはやれることに限界があり、それならば児童福祉士の資格を取ろうと考えた矢先に、民生児童委員のお声掛けをいただいたのである。民生児童委員はほとんどが自分の親世代の年配者だった。大抵が何等かの肩書きのある人で、俗に言う「立派な人」だ。学歴も持たず最年少の私ではあったが、「これからは子供達の為にもっと出来ることがある!」と胸を膨らませた。だがそれも束の間、社会福祉、ボランティアと聞くと、慈悲に溢れた人格者を想像していたが、大きく異なる現実に衝撃を受け毎晩悔し涙を流すこととなる。「誠実」とはなんなのか、ビリージョエルの「オネスティ」がずっと頭の中でリピートしていた。何もできない自分に苛立ちを覚えた。こんな世の中に自分の子供を送り出すことに申し訳なさを感じた。何が正義か、思い遣りとはなんなのか、わからなくなっていった。社会福祉の在り方、またそれに携わるべき人についての疑問に日々かられながら、多くの人生を垣間見、深く考えさせられる民生児童委員時代であった。その後、転居の為、断腸の思いで民生児童委員を辞することとなった。民生児童委員は担当地区内に居住していなければならない条件だからだ。「行かないで欲しい」「これから困った時はどうしたらいいんだ」そう手を握り泣いて下さった高齢者の方々に対し心から申し訳がなく、無念という感情を初めて知った。そしてしばらくして保護司のお声がけを頂き、民生児童委員を努めた板橋区に再び関わる事になった。

 

 民生児童委員は厚生労働省の管轄で、保護司は法務省の管轄となる。関わる対象者は全く異なるが、実は関係性が非常に深い。保護観察所の研修を受けながら民間資格ではあるが、不登校カウンセラー、虐待防止協力サポーターの資格を取得した。保護司活動をする上で必要な気がしたからだ。すると意外にも子供の悩みを抱える親からの相談を多く受けるようになったのだ。ジャンルとしては民生児童委員、すなわち厚労省の管轄である。相談内容は多岐にわたるが、小さな反発などから非行や犯罪に繋がっていくこともあった。各々の機関は様々な取り組みを掲げるが、正直なところ私はあまりパッとしない。共通して言える事は「思い遣りの心」「道徳心」を育む人間教育なのではないだろうかと感じた。

 

 昔はあまり耳にすることのなかった「○○アレルギー」「発達障害」という言葉があるが、自分の友人や子育ての悩みを持つ母親などの話を聞いていて1つの共通点に気付いた。それは食べ物である。働く事で忙しい母親や、料理が得意ではない母親は外食やファストフード、コンビニやスーパーの総菜などの食べ物を子供に与えている事が非常に多い。大人になってからアレルギーを発症した、または体調が悪いと悩んでいる友人達も、大半がコンビニを含む外食中心だ。難しく複雑な問題ではあるが、着色料・保存料など昔はなかった添加物や、自然由来ではない物を摂取することが常態化した事で、人々に何らかの支障を生じさせているのではないかと思わざるを得ない。

 

 「食べる」という事は生きる為の栄養補給だけではなく、様々なことに通じている。一人暮らしの高齢者や引き籠り生活を送る者、精神病を患ってしまった者等、全てではないが、大抵共通しているのは「食べる事への関心の低さ」である。誰かと食卓を囲むことで会話が弾み楽しい時間となる。目で見て楽しみ味わうこと、四季折々の食べ物を取り入れ季節を感じること、食べられることに感謝する心も育まれ脳への刺激ともなるのだ。高齢になると血圧や持病などで制限をかけられてしまうケースが多いが、よく食べ、且つ好きな物を食べる高齢者は元気だ。病気の原因はやはり「氣」なのである。そして元気な高齢者は自然と外に出掛けるようになる。これが自然の摂理なのではないだろうか。

 

 私は有難いことに母の手料理で育ててもらうことができた。新鮮な野菜、米、魚や果物などが常に届く家でもあった為、日本全国の旬の食材を母の手を通し口にすることができた。そのせいか、コンビニやファミレスなど外で口にする物には少なからず化学薬品の臭いや味を感じるのである。母のお蔭で私は大きな病気をする事もなく丈夫に育ててもらうことができたのだ。

 

 日本人が古来食してきた物が現在にまで受け継がれているのには理由がある。日本人の身体に合った食べ物が大自然の中で太陽の光を浴び、綺麗な水と澄んだ空気の下で育つことで、計り知れないエネルギーを人間に与えてくれる。人間もまた、太陽の光を浴び、綺麗な水と澄んだ空気を取り入れ、働き、遊び、笑うことで「生きる氣力」を生み出す。そのような心身ともに健全な日々を送るという事が、心と体を豊かにし「心の余裕」を生み出すのではないだろうか。

 

 子育ての悩みを聞いているうちに「食育」「道徳心」と並ぶほど人間の成長過程で必要不可欠なものなのではないかと考えるようになった。生まれ育つ環境は誰にも選ぶことはできない。環境に恵まれず、人に恵まれず犯罪者となってしまった者たちも皆同じ人間だ。数年前、協力雇用主会の研修で少年刑務所に行った時のこと。私は彼らの中に昔の自分の姿を重ねていた。あの時あの人と出会っていなかったら、あの時あの言葉を言われなかったら自分も…。そう思うと彼等が犠牲者のように思えたのだ。彼等に佳き出会いがあったならば、大人達が、社会が、もっときちんとしていれば、この子供達はここにいなかったかもしれないと思うと少し悔しく、切なく感じた。

 

 保護司としての活動を始めてすぐに、民生児童委員の時と同様、違和感を覚えた。適任とは思えない方々がその立場についているという感覚と法務省の取り組み方への不信感である。「社会的地位」とは何なのか。研修においても少し観点がズレてるような気がした。人間は生ものだ。感情を持つ生き物であるがゆえマニュアルは無いのだ。研修を受けながら再び妙な違和感を感じた。そして「更生」に向けての取り組みに対する、行政と現役保護司の本気度が、なぜか私には伝わってこなかった。全ての保護司が同じではないとは思うが、素晴らしい保護司が担当になったならば、それはむしろ「幸運」である。個人やNPOなどで更生保護に取り組まれている方々の方が本気度も高く、更生に成功する割合も高いような気がする。そしてその活動をされている方々の多くは「経験者」であることから、「相手の立場になって考える」事が身近にできるのではないかと感じている。主に「肩書き」や「社会的地位」を持った保護司とは大きく異なる。道を外すことなく社会的人生経験の中で「徳」を積まれてきた方であるならば、保護司は「師」として大変相応しいのであろう。「保護司」とは「保護師」でもある必要がある気がしてならない。対象者が若ければ若い程、保護司(大人)を見る目も厳しくなるのだ。

 

 最近、ある青年との衝撃的な出会いがあった。彼は3歳から18歳まで虐待を受けながら児童養護施設で育った。筋ジストロフィーという難病を持ち、施設退所後は職場の寮に入所をしたが病気の為に解雇となり、行き場を失い新宿で路上生活を余儀なくされた。児童養護施設での虐待に耐えられず、役所、児童相談所と助けを求めたが彼らのSOSが届くことはなく、彼は大人と社会を恨み信用出来ず、静かに命が消えるのを都会のど真ん中でただただ待っていたのである。自分の子供と同じ年の子供が寒空の中そんな状況下にある事に衝撃をうけ、私はいてもたってもいられず彼の元へと向かった。彼との出会いで気付いた事は、元民生委員も保護司という立場も何の役に立たないという事。むしろ彼にとっては敵のような存在だ。彼にとって必要なものは何か・・・。「頑張れ」の応援言葉でも「カンパ」でもない。まずは命を繋ぐ為の場所と環境なのである。私が支援団体を設立していればその場で彼を救うことができたかも知れない。しかし私は彼にとっては信用できない大人の一人であり、無力でしかなかった。

私は彼にすぐに用意ができた物資と名刺と電話代を渡しその場を後にしたが彼からの連絡はない。

 

 路上生活を送る彼等を食い物にする「貧困ビジネス」というものがある。弱者から生活保護のお金を吸い取るビジネスである。路上生活者を狙う犯罪は多く、彼らの日常に「安心」という言葉はない。貧困ビジネスの被害や悪質な考えを持つ者らにより命を落とすなどの危険は常に付いて回る。昨日まで隣に居た者が消える恐怖。そして生きる為に犯罪者への道を選択する者もいるのだ。現実社会に嫌気がさし、自らの意思で路上生活者となる者もいるが、犯罪の隠れ蓑として路上生活を送る者もいる。路上生活よりも安全な刑務所での暮らしを求め罪を犯す者がいる。特に、孤独な高齢者は貧困生活からやむを得ず、または病気治療目的で自ら刑務所に入ることを選択してしまうのである。21歳の彼の隣にはホームレス仲間の健康な30代と深刻な怪我を負った40代の男性が居たが彼等もまた社会の犠牲者のように感じられた。21歳の彼は自分のことよりも怪我を負っていた男性の事を気にかけていた。辛い経験をしながらも人を思い遣れる心を持つ若者が、物質豊かなこの時代に都会のど真ん中で、難病を抱えながら冷たいコンクリートの上で寝起きし、静かに死を待っている現実・・・。手がかじかむような寒さの中、通り過ぎる大人達は誰も声すら掛けようとしない。大切にしなければならないことは便利な道具の開発や便利な社会なんかではない、「思い遣る心」を持った人間教育なのではないか。それこそがこれからの日本をより豊かにすることへと繋がるのではないだろうか。この現実を目の当たりにし、その場で何も出来ない自分を悔しく思った。更生とは何なのか。人間だけではなく「社会」にこそ「更生」が必要なのではないか。罪を犯す者も、虐待をする者も、困っている人を見て見ぬフリをする者も、最終的には「心」の在り方次第なのではないだろうか。「他者を思い遣る心」が誰かを守る行動に繋がり、「感謝する心」が何かを守る行動へと繋がる。皆誰もが人生の先達となり得る。生きる姿を子供達に見せることで子供達は學ぶのだ。かつての若き自分自身がそうであったように。。。

 

 私の願いはただ一つ。「人の為に生き、人の為に尽力する人生」だ。信仰している宗教は無く、あえて言うならば自然崇拝者であるが、神社仏閣などで手を併せる場へ行く機会があれば「感謝」と「世界平和」を祈念する。理由はない。強制された訳でもない。おそらく両親の教育方法と環境が私をそうさせたのだろう。「人の心の痛みのわかる人になれ」「困っている人を見たら見て見ぬフリをしてはいけない」「紙切れ1枚でも人の物を取ってはいけない」「人の悪口を言ってはいけない」「ご飯粒一つでも残してはいけない」「人様に迷惑をかけてはいけない」「相手の立場になって物事を考える」等々…。ごく当たり前の事だ。勉強を強制された事はないがテレビ、ゲーム、漫画や流行などとは無縁の教育方針で、唯一与えられたのは本であった。それらはどれも戦争、病気、動物がテーマの悲しい実話で、許されたテレビと言えばNHKの「おしん」と「野生の王国」「大草原の小さな家」くらいである。元々山男の父は兄と私をよく大自然の中へと連れ出した。山、川、海、神社仏閣、歴史散策など。東京で生まれ育ちながらも私が自然崇拝者となったのは父の影響が大きいと言える。両親の狙いであったのかは不明だが、幼少期に育つ環境はその後の成長に大きな影響を及ぼすに違いない。

 

 幼少期の私の周囲には常に多くの大人達が居た。祖父は宮大工で職人の出入りが多く、祖母は民生児童委員をやりながら日本舞踊を教えていた為に様々な人の出入りがあった。大人達から学んだ事は多い。「靴を揃えなさい」「おはよう」「おかえり」そんな言葉をかけてくれる大人が沢山いた為、一人になって孤独を感じたり、空腹になったりした記憶はない。野球チームが出来そうな程の数の従兄妹が近所に居た為、子供なりのチームワークも身についたと思う。一つ上には聴覚障害を持った従姉もいたので、幼少期から障害者に対する偏見は全く無く、その後も様々な障害を持つ友人に出会えた。正に感謝だ。これら全ては「環境」である。血縁だけでなく「人と人との繋がり」の大切さや「自然の大切さ」を周囲の大人達が見せ体験させ、与えてくれた結果が私という人間を形成したのである。その後、躾に厳しい両親に対し反抗するようになり、中学以降大きく道を踏み外すこととなるが、それでも幼少期に埋め込まれた教育は血となり肉となり身につき、他者へ迷惑はかけてしまったものの、礼儀正しくきちんとした不良(?)であったと自負している。私の一番嫌いなものは「人間」であって、一番好きなものも多分「人間」だ。嫌なことも嬉しいことも、學びも全て「人間」が教えてくれた。「人間」は私にとって大切な教材だ。生きるという事は學びそのものなのだ。辛い経験は人の立場になって考える心を作る。悲しい経験は人に優しい自分を作る。愛された人は人を大切にする方法を学ぶ。人は人により成長させてもらうものだ。私と関わってくれた数えきれない程の人達への感謝と、この世に生まれた自分の使命として、一人でも多くの人が幸せな毎日を送れる社会になるよう尽くしたいと考えるようになった。

 

 現在、核家庭、高齢者の独居、孤独死、自殺、鬱病という言葉を聞かない日はないが、これまでの経験からこれらは全て「心の余裕の無さ」からくるもののように感じている。「思い遣る心」と「道徳心」をしっかりと育むことで全ての人が優しい人間になれるとは限らないが、今よりは優しい社会になるのではないだろうか。虐待、イジメ、非行、犯罪、少なくともこれらは今よりも減るのではないかと思うのだ。自分の暮らす街の安全を誰もが願うが、願うだけではなく作り上げていかなければならない。高齢者問題が取り上げられているが、地方の高齢者は都心の高齢者に比べると元気な方が多いのには理由がある。地方の高齢者は「退職」という老後があまり無い。体が動くうちはみな田畑を耕すなどして活動し、地域の人とコミュニケーションを取り、よく食べよく笑う。都会では無くなってしまった古き良き時代が未だ根付き、隣近所で「助け合う関係」が構築されているのだ。まさに今回立ち上げた寺子屋名「結(ゆい)」そのものである。人は一人では生きていけない。ならば支え合いの中、少しでも生きやすい人間関係を築かなければならないのではないだろうか。時代の変化と共に便利になる一方で消えつつある日本の素晴らしい文化、それは即ち日本の特色だ。他国から見た日本人のイメージとは「譲り合いの心」「思い遣りの心」「誠実さ」どれも「心」なのである。四季があり、綺麗な水と空気に恵まれたこの豊かで美しく誇らしい瑞穂の国を未来の子供達へと繋ぎ、やがては世界へと貢献できる子供達を育てていくことを思い描くことで自然と笑顔になる自分がいる。戦争体験者も減り、伝統工芸を継続してきた様々な職人達も高齢を迎えている。今やらなければ日本は日本らしさを失い衰退していくのではないだろうか。「大和魂」「大和撫子」「武士道」「誠の精神」これらの言葉もまた歴史に消え埋もれていくような気がしてならない。ゆがんだ社会の中、僧侶、教員でさえ精神を患ってしまっている現代、不健全な世の中で子供達が健全に育つわけがなく、手本となる大人がいない社会で子供達は何を道標とすれば良いのだろうか。血の繋がりを越え、地域みんなで子供を育てることは高齢者の健康推進に繋がるだけでなく、非行防止となり犯罪者を減らすことにもなる。関わる大人たちの見守りの眼、差し出す手も、握りしめる手も、添える手も、多ければ多い程、子供達は心身ともに育まれ、生きる術や知恵を学べることとなる。誰もがその眼と手を持ち合わせている筈だ。一人が出来ることは小さな事でしかないが、同じ志を持つ者達が集うことで、形となりその活動は少しずつ大きなものとなり、やがては社会の変化につながるに違いない。この活動を一人でも多くの方々へ知って頂き、思いはあるが行動出来ずにいる方々へ「ここです!」と旗をあげ、更にその旗を振り続けることで仲間を増やしていきたい。日本国民全体が失われつつある「思い遣りの心」を取り戻すことで、国や行政に頼るだけではなく、現在この国が抱える高齢化社会、児童問題などの様々な問題解決に繋がっていくと信じている。地域住民に対する単なる啓発運動だけではなく、それぞれが必要とされ「生きがい」「やりがい」を持てる地域社会のネットワーク作りが必要である。私は、民生児童委員、保護司と経験させて頂いたことを活かし、老若男女を問わない「寺子屋」を作ることで、これからの少子高齢化社会を持続可能な形に変え、より強く、より優しく美しい日本を子供達へと残していきたいのである。

それこそが、人と人との支え合いで結ばれる生涯學習「心の塾」だ。

 

2021年3月

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